1945年8月5日の7号機銃撃空襲について


 1981年4月23日の新聞に太平洋戦争に関係していた7号機のプレートが八王子市郷土資料館に寄贈されたという記事が掲載されました。当時ED16の撮影に熱中していた私は、空襲の詳細を知らぬまま新聞記事を切り抜き、ED16のアルバムに貼りました。私が撮影した7号機の写真は2枚だけでした。1枚は引退間際に御岳駅で上り電車の中から撮影した写真(左下)。もうの1枚はすでに運用から外れ、西国立の立川機関区で休車扱いになり、事実上廃車待ちの状態のときでした(右下の写真1981年1月)。ペンキが剥がれ、長年の傷みもひどくボロボロの状態でした。プレートの下あたりは陥没し、修理の痕跡があります。
  


今回、このホームページを立ち上げるにあたって、その新聞記事を頼りに、八王子市郷土資料館にナンバープレートの消息について問い合わせしました。幸いにも今もそのナンバープレートは郷土資料館にあり、展示はされていないものの閲覧可能ということでした。そこで申請書を提出し、2005年6月5日に閲覧させていただきました。
 八王子郷土資料館


   
ナンバープレートと収蔵票

閲覧の際に、7号機銃撃の資料として、『八王子の空襲と戦災の記録』という文献をコピーさせてもらい持ち帰りました。その内容はあまりにも残酷で悲しいものでした。戦争とは関係のないところで趣味として閲覧を申し込んだ自分が恥ずかしく思えました。



『八王子の空襲と戦災の記録』より抜粋

 湯の花とトンネル列車銃撃空襲は中央線浅川駅(現・高尾駅)と小仏トンネルの間にある浅川駅側出入り口で、昭和20年8月5日に新宿発長野行き419列車が米陸軍の戦闘機P51の銃撃を受け死傷者を出した空襲である。
この空襲の特色としては、しばしば繰り返された戦闘機による銃撃空襲のなかにあって、あきらかに列車とその乗客の殺傷をねらって行われた空襲であったこと、その結果死者52名、負傷者133名という8月2日の八王子空襲に次ぐ被害を出したことである。また、この被害は列車に対する戦闘機の銃撃空襲の被害としては、全国で最大であった。


ED16は5両から8両の客車を引いて新宿を10時10分に出発した。

新宿駅から乗った人々のうちには、疎開先へ向かう人が多かった。空襲の激化にともなって山梨や長野は都民の疎開地になっていた。
 谷川忠良さん(37歳・会社員)は、この5月が日曜日だったので、妻と子供4人を疎開させていた山梨県南部都留郡の実家に行こうかと、前から5両目に乗った。
 都内に残って働いていた夫へ、疎開先の山梨から食べ物などを届けに出かけてきた石川まさじさん(41歳・主婦)は、帰るところだった。
 柄沢助十郎さん(51歳・自営業)は、病気(結核)の妻と子供たちを山梨県の石和に疎開・療養させ都内本所区菊川町の店との間を行き来していた。
 黒柳良子さん(17歳・学生)と美恵子さん(14歳・学生)の姉妹は、長野県の飯田に疎開するために乗り、南側の窓際に向かい合って座った。
 乗客の中には兵隊も多かった。矢内さんは「前方1,2両は兵隊専用と聞いた」と記している。
 車内はすいていたとする人もいるが、矢内さんは「乗客のほとんどが持てるだけの荷物を持ち込むので、網棚や通路は荷物で一杯で、車内は通行はほとんどできない状態だった。車内は蒸し風呂のように熱かった」と記している。
 こうして、帰省を楽しみにしている乗客を乗せた419列車は午前10時10分の発車時刻をほとんど遅れることなく発車した。

立川駅
 10時48分に到着した立川駅でも、3日ぶりの中央線全面開通を待っていた人が乗った。
 おいの出征を見送るために山梨から立川の親戚の家に来ていた宇野うたさん(70歳)は、空襲を心配した親戚の者が止めるのも聞かず乗ったという。
 立川警察署の警部補だった手島国男さん(32歳)は甲府署に逮捕された容疑者を引き取りに行った。中央線が不通だったため、この日まで引き取りが延びたという。
 仕事明けを利用し、疎開先の長野へ帰ろうと降旗昭次さん(17歳・国鉄職員)は後ろから3両目に乗り、通路に腰をおろした。「車内は少々混み加減、立っている人が目立つ程度だった。

八王子駅
 419列車が八王子駅に到着すると、乗務員の交替が行われ、鈴木頼之機関士らに代わって、竹田機関士、小関機関助士、河野勇機関車検査係、深沢隆機関助士見習らが乗車した。
 ここでも多くの人が乗り込み、かなり混雑していたらしい。相模原の陸軍廠に勤めていた鈴木美良さん(20歳)は、夜勤明けで山梨県北都留郡七保村(現・大月市)の自宅に帰ろうと横浜線で八王子駅まで来ていた。419列車はこんでいたため
 前部2両目の中央の比較的間隔のある窓より乗車した。暑い車中は通路も立錐の余地もなく超満員のため、男性や若者の多くは機関車のデッキ連結器上にもすずなりに乗車していた。
 このように混雑していたのは、3日日ぶりの全面開通ということのほか、419列車が到着する前に八王子から出発するはずだった3本の列車(5時発塩尻行き、6時25分発大月行き、9時7分発甲府行き)が運休した可能性が考えられる。(中略)そして、当然のことのようにこの419列車は少し遅れを出しており、駅に停車中の11時15分には警戒警報が発令されたのでしばらく出発を見合わせ、20分ごろになって出発したと思われる。

浅川駅(現高尾駅)
 419列車が約10分で浅川駅に到着すると、すぐに空襲警報が出た。11時半のことだった。このため、「乗客全員は近くの寺院境内に退避させられた」とも、駅のホームとホームの間に退避させられたともいう。
 義兄の出征を見送るため、山梨県の鳥沢へ行こうと妻と子ども2人の4人で乗り合わせていた田中春吉さん(37歳・塗装業)は約30分くらいの退避時間の間に「子どもににぎり飯の弁当を食べさせ、駅前の食堂でむりにお願いして子どもに茶わん一杯の水を呑ませた」という。
 419列車は、浅川駅で乗客を降ろして30分ほど停車していたらしい。
 この間、浅川駅ではラジオで東部軍管区情報を聞いて、P51の動きに注目していたと思われる。おそらく、相模湾から北上してきたP51が正午前に八王子西方を通過して埼玉付近に達し旋回しているということを聞いて、今出発すれば小仏トンネル、悪くても湯の花トンネルに入れると考え発車を決めたのではないだろうか。
 小仏トンネルまでは6分、湯の花トンネルまでは4分で入れることができた。P51はもう来ないか、引き返してもどちらかのトンネルに入る時間はあると判断したのだろう。しかし、発車のための準備をしている間にも、埼玉付近にいたP51は刻々と南下してきていたのである。


浅川駅からトンネルまで(右の写真は湯の花トンネル、高尾側)
 419列車が発車すると伝えられると、人々はいっせいに乗り込んだ。兄と二人で乗った長田康子さんは、その混雑ぶりについて次のように記している。
 誰もが乗り遅れまいと、我先に必死になって乗り込んだ。中学生の兄と小学生の私もギュウギュウ身体を押し込めながらやっと乗車した。車内は兵隊さんや買出しの人で立錐の余地もなく、大人に挟まれて小さい私は潰されそうだった。それでも乗車できた喜びと「お母さんのところへ行ける」という嬉しさでいっぱいだった。
 中田春吉さんは、「列車は満員だったので、車内で座っていた19歳くらいの新宿駅に勤めているという女の子に子供の一人を抱いてもらい、私は列車の継ぎ目に半身を外に出したままで乗車した」という。この女の人は、新宿駅の出札係だった幡野すみ子さんだった。
 浅川町小仏(現・裏高尾町)の青木孝司さん(22歳)も、浅川駅からの乗車のひとりだった。青木さんは甲府の連隊に入隊中だったが、一時休暇で帰省し、再び隊に戻るところだった。
 こうして満員となった419列車は、12時15分ごろに浅川駅を出発した。中央線は浅川駅を出ると急に山が迫り、甲州街道と南浅川にかかる橋を渡ると谷間に入る。そして、旧甲州街道と小仏川と並行しながら、湯の花、小仏トンネルへと線路は続いている。また、ここは1000分の15から25という急勾配で、列車にはきつい昇り坂だった。419列車はここをゆっくりとのぼっていった。角南利三さんも「車内では戦況や食べ物の談が賑やかで、数分後に、あの凄惨な血の地獄が発生することを予想させるものは何一つありませんでした」と記している。            
                                                  

銃撃を受けた時
 湯の花トンネルは、浅川町の荒井地摺指地区の間に、北の山から張り出している通称「猪の鼻」と呼ばれる山すそに掘られている全長162メートルの短いトンネルである。419列車は、小仏関所跡の北側を通ってこのトンネルに向かっているところで、八王子駅の方から追いかけらるようにして来たP51に発見された。P51は高尾山から蛇滝付近で右旋回して急降下し、進行中の列車に対し南側から銃撃をあびせた。
 まずねらわれたのは機関車で、このために419列車は機関車と客車一両半がトンネルに入ったところで止まってしまった。機関車は煙を出したが、炎上するようなことはなかった。そして、P51はくり返しトンネルの外の客車に銃撃を加えた。
 トンネル内の二両目と外の三両目は悲劇の分かれ目だった。二両目に乗っていた鈴木美良さんは次のように記している。
 浅川駅を通過したと思ったとき、突然進行方向左上方から「パリ、パッ」と窓上に数発の機銃掃射を受けた。とたん、車内から起こる悲鳴、続いてうめき声、誰かが「鎧戸を閉めろ」と叫ぶ。私はその瞬間、座席の下に身を伏せた。列車のスピードは急に落ちていた。そして、黒煙を噴きながらトンネルへ入って停車した。私の乗車位置はトンネルより5〜6メートル入ったところだった。前部の車両の乗客はトンネル外に出ようとするものの、外は米国機の掃射がありトンネル入り口は混乱した。
 二両目は一度銃撃を受けたものの、その後はトンネル内へ入ってしまったから無事だった。しかし、三両目はくり返し銃撃にさらされ、もっともひどくゆられた所だといわれている。ここに乗っていた黒柳さん姉妹のうち、妹の美恵子さんは無事だったが、姉の良子さんは最初の銃撃で即死している。
 五両目にいた谷内忠良さんは、銃撃を受けてから車外に出るまでを次のように記している。
 最初のトンネルに入ろうとした直前、敵機の襲来が車内放送され、窓の遮蔽幕を下ろす。瞬間、左山頂に敵機数機編隊が見えた。とたんに一回目の機銃掃射に会い、逃げることもできず、腰掛の板を窓際に立てかけ、荷物を頭の上に置き、低い姿勢で生きた心持ちなく敵機が去るのを待った。ニ、三分の間と思うが、第二回目の機銃掃射がはじまった。この時列車は立ち往生、前の客車の方から後方車両へと掃射されたと思った。ちょうど網棚のすぐ下のガラス窓からななめに通路に向かって銃撃され、満員と疎開荷物で身動きもできない状態で、車外に逃れることもできなかった。

 乗客は銃撃の合間に窓やドアからわれ先に車外に飛び出し、列車のかげ、畑の中、山の雑木林、線路の下を流れている谷川などへかくれた。
 長田庸子さんは「死体の中から這い出しかきわけ乗り越えて、デッキから線路に飛び降りると、素早く列車の下へもぐり込み」「車輪の陰に隠れて『御先祖様のおばあちゃん……助けてください』と、ひたすら言い続けて祈った」という。また、車外へ出る時には、いっしょに乗った兄と離れ離れになっている。
 後ろから3両目に乗った降旗昭次さんはP51が列車に並行して飛んできたのを見た。窓を閉め、鎧戸を閉めて、列車は小仏峠への急勾配をノロノロと登っていった。しばらくたって、列車走行音に混じって不気味な飛行機音が私の耳に入ってきた。窓際に座っている人も気づいたのか鎧戸をそっと下ろした。
 「敵機だ」
その人が叫んだ。私も目を向けた。まさしくP51であった。裏高尾の狭い谷あいを列車に並行して飛んでいる。まさかと思っていた私たちは驚き、大きなどよめきと動揺が車内全般に起こった。間もなくP51が右旋回して、第一回の銃撃が行われた。列車は少し蛇行して止まった。
「機関車がやられたらしい」という声が聞こえた。
つかの間のことだった。P51が窓いっぱいにこちらに向かって突進してくる。。操縦士の顔まではっきり見える。私はとっさに通路の床に伏せた。と同時に「ダダダ……」と機銃音と共に、列車の窓より下の側板から弾が入ってくる。悲鳴があちこちから聞こえてくる。しばらくすると、伏せた私の背中に人が乗りかかってきた。「伏せるならばもっと低いところにすればよいのに」と思ったが、無我夢中だった私には、それをよける余裕がなかった。そのままの姿勢でじっと堪えていた。何回か銃撃が繰り返されていたが、その途中で飛行機の間隔が長く感じられてきた。「今だ」私は車内より脱出するため、起き上がった。そのとたん、私の背に伏せていた人がゴロンと転がった。男の人だった。もう息はなかった。思わず、「ぎょっ」としたが、それにかまう余裕もなく列車の窓から飛び降りた。
 新居誠二さん(19歳・徴用工)も同じ車両に乗り合わせ、進行方向右側(北側)の席に三人ですわった。銃撃が始まると、すぐ隣にすわっていた兵隊が立ち上がって網棚の荷物を取ろうとした。新居さんは反射的にその席に伏せた。兵隊は網棚に手が届いたところで内臓を撃たれ、網棚に指がかかったままくるりとまわって、伏せていた新居さんに血しぶきを浴びせたという。新居さんはこのあと車外へ出て、湯の花トンネルの中へ入ったところ、そこには股と腕をひかれた男の人がいて「坊や助けてくれ」と言われたが、自分のことでせいいっぱいだったと語っている。また、銃撃後、戻った客車の中で、髪が短くごま塩頭の初老の男性が亡くなっているのも目撃している。原伝さんによると、この風貌は亡くなった父親の満房さんにまちがいないという。
 

銃撃の模様
 湯の花トンネル近くの荒井地区の人たちは、谷間にこだまする飛行機音と機銃掃射の音に次は自分たちがねらわれるのではと、家の中、防空壕木の影などでじっとしていた。ここは8月2日の八王子空襲のときには空襲を受けなかったから、まったくはじめての経験だった。川村藤江さん(26歳・主婦)は、このときから子供たちが空襲をこわがるようになったと語っている。恐ろしさのあまり銃撃の様子を見なかった人も多いが、蛇滝の入り口、三光荘(現・浅川老人ホーム)に住んでいた落合(旧姓佐脇)多恵子さん(14歳・学生)は家の東側を低空で飛んでいって列車を銃撃するP51を見ている。
 突然耳が裂けるような凄まじい爆音が頭上でして、大きな公孫樹の葉を揺さぶり散らし、敵機が列車めがけて急降下していった。そのときヘルメットをかぶったアメリカ兵の顔が間近に見えて恐ろしさにガクガク怯えた。すっぽりと被った座布団の中の頭は汗でぐっしょり、目だけ出してじーっとその光景を見ていた。「アッ……早くトンネルに逃げれば助かるのに…」「早く……早く……トンネルに逃げてェ……」心で叫んで祈ったが列車はトンネルに一両半突っ込んで立ち往生してしまった。敵のP51は二機で空に輪を描く様に舞いながら交互に列車を銃撃しました。ほんの5,6分であったろうか。私は気が抜けたようにガックリして、さすがに気の強い母もその場にヘタヘタと崩れるように座った。恐ろしいつかの間の出来事であった。我にかえると自分達が狙われなかった事が奇跡のように思えた。力なく座る母に私と妹は抱きついた。「よく助かったねえ……」母はそう言って私と妹を抱きしめてくれた。

現状の惨状
 P51が飛び去り、山あいに夏の喧騒が戻った時、419列車の車内には荷物が散乱し、血しぶきや肉片が飛び散り、床には死者がころがるなどすさまじい光景が広がっていた。車外で撃たれた人もいた。客車の内外を歩いた鈴木美良さんは次のように述べている。
車両には踏み場のないほどすさまじい血の海。貴重品や手荷物の散乱。でも車両の中には人影は見当たらない。みんなあの銃撃の最中に逃げ出したのだろう。線路床に立った私は足がすくんだ。それは銃撃方向から反対の車輪の陰になるようにして、さらに車輪にしがみついて死直前のくるしみにあえぐ人たちが数人、重苦しいうなり声をあげ、胸のあたりから黒い血液をどくどくと噴出すように流していた。でも哀しくも、これらの人たちを救うすべはなかった。そして自分の全身を手でさわってみて、我が身の安全をたしかめた。線路わきの山林中にはきびすを撃ち抜かれた将校がいて、自力では少しも動けない様子であった。また、腕を負傷した若い婦人が若者に手を合わせて、この子をぜひつれて逃げてくれと頼む姿もあった。七歳くらいの少年だった。
上長房分教場から寺原秀雄さんもかけつけた。
…近づいてみると列車の中から子供の泣き叫ぶ声やうめき声がなまなましく聞こえてきた。私は、ギョッとしてその場に立ちすくみ、列車に入るのをしばらくためらった。やがて事件を聞きつけて地元の消防団、婦人会の人たちが現状に集まってきた。私もその人たちといっしよに後部から二両目の車に足を踏み入れた。車内は死傷者で文字通り血の海と化し二目と見られない悲劇な光景を呈していた。二両目には軍人が大勢乗り込んでいたが即死しているもの、ひざを射抜かれ立てないでいるもの、ハラワタの出ているもの、腕の関節を撃たれているものなどいろいろであった。機銃弾は撃たれた部分は目立たないが出口の部分はザクロのた口のように無残な穴があくのが普通で、ハラワタが出てるのは背中から撃たれたものだった。五つぐらいのかわいい男の子を連れた若い母親が、ちょうどお昼の弁当を広げて鋳たときられたらしく子供だけが射抜かれて死亡し母親が半狂乱になって泣き叫んでいるのはひとしお哀れを誘った。


上記は、『八王子の空襲と戦災の記録』の一部です。この後には救援活動の様子や、遺体の火葬と供養・身元調査などの様子が、証言者の手記を中心に克明にしるされています。この書物は1985年に八王子市郷土資料館より出版されたものですが、その編集委員の一人だった齊藤勉氏は1992年に、さらに調査を進め、『中央本線四一九列車』(のんぶる舎)を出版されています。『中央本線四一九列車』にはED167号機のその直後の扱いや様子を次のように記しています。



「架線などが切れてしまっていたことから、自力では走れない419列車を回送するために、八王子機関区から蒸気機関車が回送されてきた。機関士だった長谷川富蔵(26歳)は、蒸気機関車を横浜線の相模駅に疎開させて戻ってきたところ、助役から湯の花トンネルで列車が空襲を受けたから、浅川駅まで戻すようにとの命令を受けた。機関助士だった弟と二人で、C58蒸気機関車で向かい、湯の花トンネルから419列車を浅川駅の南の貨物線まで引き戻した。浅川駅で腰を下ろしてぼんやりしていた坊城によると、419列車が浅川駅に来たのは、少し風が涼しくなってきたころだったという。彼女は弁当を取りに回送されてきた419列車の車内に入って、その惨状をあらためて目にしている。
 それはそれはひどいものだった。機関車の後部はデッキになっていた。そこは本当に血の海だった。そしてさざ波をたてていた。一両目は屋根もとんでいた。軍服のはしやら布切れやら落ちた天井のさけめにもぶらさがり、腰掛けもひっくりかえっていた。三両目から四両目あたりから私は車内に入った。床は水をこぼしたようになっていてつるつるすべってなかなか歩けなかった。白いふわふわしたものや、髪の毛のかたまりがそちこちにちせばったり、網棚にぶらさがったりしていた。ハッと足がすくんだのは指先と思われるものが足許に二つ三つころがっていることだった。私の手荷物はお弁当と一箱のハタン杏だった。幸いにも風呂敷包みは少しも汚れず網棚にのっていた。
 列車は少なくとも翌日まではここに停車しており、かけつけた遺族が車内に入って、遺品を見つけることもあった。また、恐る恐る中をのぞきこんだりする人もいた。中島飛行機浅川工場に学徒勤労動員で来ていた石神井中学校の松沢利明は、列車の床に落ちて割れていたりんごの白い中身が血にも汚れず、きれいだったことがとが印象的だったという。
 車内に残されていた荷物はここで全部集められ、駅の倉庫にうず高く積み上げられた。それらは持ち主が現れるたびに返されたが、引き取り手が現れないものは戦後しばらくしてまとめて焼かれた。
 その後、この列車がどのように扱われたのかはわからない。ただED16-7号機関車は当時甲府機関区に所属していたから、甲府駅まで回送されたらしい。
実際に甲府駅でみたという人もいる。
 中央本線が、切れた架線などがつながれて全面復旧、開通したのは午後5時15分のことだった。P51の攻撃から5時間あまりが経過していた。



 以上が2つの文献によるこの空襲の概略です。その後、5周忌のとき供養塔が設置され、1991年には亡くなった方のお名前を刻んだ墓碑が建立されています。毎年8月5日には現場で慰霊行事が行われています。空襲から60年目になる今年の「いの花トンネル慰霊の集い」には70人が出席されたそうです。
 
 このサイトを立ち上げたことで思いがけなく戦争の悲惨さ、哀しさ、残酷さを知ることになりました。私にとっては過去に学校やその他の機会に学んだ戦争とは比べ物にならないリアリティーさを感じました。はじめて、肌で戦争の恐ろしさを感じたと言っても過言ではないかもしれません。
 私が残せた7号機の写真はたった2枚の写真ですが、このサイトが続く限り2枚の写真とともにこの空襲の悲劇をひとりでも多くの人に伝えていきたいと思います。
 亡くなった方のご冥福を心からお祈りいたします。



現在、慰霊碑は湯の花トンネル手前(高尾寄り)、線路の南側に設置されています(上の写真)。







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